グローバルリーダー。
会社や教育機関のWebサイトとかカタログでよく見かける単語ですが、この言葉を見かけるたびに、正直、何だかちょっと薄っぺらいなと意地悪な気持ちが湧いてきます。
理由のひとつは抽象的過ぎて、それが何を意味しているのか常に曖昧なこと。
世界的企業の日本支社の部長はグローバルリーダーでしょうか。
訪日外国人相手に寿司を握る寿司屋の大将はグローバルリーダーでしょうか。
世界で、または日本人で最も優れたグローバルリーダーって、一体誰でしょうか。
言語、人種、活動地域など変数が多くて、何が満たされればグローバルと言えるのか、正直本当によく分からないのですが、この言葉を発する人、それに惹かれる人は、何をイメージしているのでしょう。
もし「どこに行っても生きていける」ということであれば、そう書けばいいのになと思いますし、万が一単に「英語を使う、話す」という場合でも、そう書きさえすれば済みそうです。
抵抗を感じるもうひとつの理由は、リーダーはチームや仲間があってこそのリーダーなのに、リーダーに固執するが故にチームや仲間へのリスペクトを感じない点。
もちろん、ビジョンやミッションをを端的に表現する際、細かいことをいちいち説明していられないのだとは思います。
ですが、リーダーを目指す過程で優秀なフォロワー・縁の下の力持ちになる可能性もあるし、リーダーやフォロワーは状況に応じて入れ替わるものだと書き添えることはできないものでしょうか。
グローバルかどうかは置いといて、自分がリーダーとしてSOW EXPERIENCEを、またはアフリカ/ウガンダでも事業を営み組織を率いる者として常に意識しているのは、自分たちが解こうとしている問いが、本当に心血注いで必死に解くべき適切な問いなのかどうか。それに尽きます。
どんなに賢く見える解決手段でも、元となる問いが間違っていれば誰の役にも立ちません。
自分を振り返っても、あのとき早い段階で問いを変えておけば良かったという反省は無数にありますし、似たような問いを立てる人や会社が増えてきたり、課題解決という言葉ばかり言う人が周囲に増えてきたら、それは潮時を意味するように思います。
「何が問題か」が問題だ。
ずっと僕にインスピレーションを与え続けてくれている黒崎輝男さんは、いつもそう言います。
今でこそ問う力が大事だと言われるようになりましたが、少なくとも知り合った20年前から、そしておそらくその遥か前から「何が問題か」が問題なのだと言い続けてきた彼の慧眼には恐れ入るばかりです。
自分が曲がりなりにも、果たしてグローバルリーダーを目指すことが正しいのか、そこで少し立ち止まって考えられるようになったのは、多分黒崎さんのおかげです。まだまだ往々にして、間違った問いを立ててばかりで反省することが多いですが。
ちなみに黒崎さんは、僕が直接知っている人の中では最高の国際人です。グローバルリーダーかどうかは分かりませんが、昔も今もずっと世界中を旅していますし、どこに行っても友だちがいる。そして一つのカフェとかホテルを起点にして街を巡り、美味しいものを食べ、いきなり何かの集まりに連れて行かれたかと思うと、突然依頼されて(いたのか?)スピーチを始めたりする。平易な英語だけど臆する様子など全くなく、それでまた友だちの輪が広がり、次なる旅の理由となる。
昔一緒にニューヨークに行ったとき、突然現れた黒人男性が僕に、黒崎さんについて力説してくれたときのフレーズが今も忘れられません。
He is miracle. He is always doing something new.
多分、黒崎さんはグローバルリーダーになろうなんて一瞬たりとも思ったことがないはずです。
「何が問題か」が問題だ。
それをずっと自分で問うてきて、僕含め(世界中の)人たちに伝え続けてくれたのだと思います。
ちなみにこの間お茶したときには、トランプが「Make America Great Again」じゃなくて「Make American Culture Again」って言ってたら最高なのにね、と話してました。最高。
何だか書き出しで想定していなかった謎の展開になってしまいました。冷静に読み返すとまるで弔辞のようですが、黒崎さんは元気です。多分これは深夜に珍しく起きていて、お酒と音楽のセレクトが良かったせいではないかと思われますが、明日の朝、まぁ良いだろうと思えたら公開します。