想定外をもたらす装置

先日の採用面談で面白い話を聞いた。
彼女はよくキャンプに行くという。
固定メンバーは彼女と、行きつけの居酒屋の店主。
それ以外のメンバーは毎回バラバラで、基本的には居酒屋の常連。
はじめましての人も少なくなく、そういうメンバー数人と待ち合わせて、彼女の車に乗り込み現地に向かうこともよくあるらしい。
でも居酒屋の店主とは親しく、信頼できるので、その人が声かける常連ということで危険な思いをしたことは一度もない。
むしろ毎回色んな人と交流できるのが楽しく、月いちくらいのペースで行っていると話してくれた。

誰が来るかは分からないが、まったくの他人でもない。
店主への信頼、居酒屋というゆるい共同体、そして月に一度というリズム。
だから彼女は、知らない人と車に乗り、長い時間を共にすることを楽しめる。
これは「想定外をもたらす装置」だなと感じた。
そもそも装置というのは想定通り動くことを期待するものなので、より正確には「想定外を想定通りもたらす装置」だろうか。

人が日々の生活を送っていく上で、全てが想定外で思い通りにいかないことは辛い。
しかし、だからと言って全てが想定内というのも相当しんどい。
すべてがスイッチのオン/オフのように思い通りになる人生。
多分、そんなことになったら人はすぐに病むと思う。
つまり一定の刺激や発見、そして楽しさのためには、程良い想定外が生活の中に組み込まれていることが大切なわけだが、彼女のキャンプはそれを体現している。

ではこの「想定外をもたらす装置」を、どうすれば我々は実装できるのだろうか。
少し考えてみたのだが、この装置は実装するというよりも、既に私たちの生活に実装されているような気もする。

例えば趣味。
スポーツ(プレイ、観戦共に)もカメラも、そしてみんな大好き推し活も、その熱意は人を色んな場所に連れて行ってくれるし、感動をもたらしてくれる。
何が起きるかは実際にその段になってみないと分からない、けれど何かは起きる。
これは立派な「想定外をもたらす装置」と言える。

仕事もそうだ。
本来、仕事は想定外を減らす営みが中心。
計画を立て、段取りを整え、リスクを潰していく。
でも実際には、予定通りに進む仕事などほとんどない。
トラブルが起き、誰かに助けを求め、思いがけない場所に行き、知らない人と組むことになる。
仕事の面白さは、案外そのあたりにある。

次は子ども。
あれをしたい、これは嫌だ、抱っこ、おしっこ。
彼らの動きは刹那的で読めないことが多いが、その想定外の行動が故に可愛くもある。
そして面白いのは、彼らと一緒だと、ただ道を歩くことすら楽しくなるし、彼らが行きたいと言えば、想像もしなかった場所に出向くことになる。
子どもの繋がりがもたらす大人同士の繋がりというのも、また一興だったりする。

他にも旅とかペット、パートナーの存在とかも一例だと思うが、とにかく自分を想定外の場所に連れて行ってくれる入口は、案外身近なところにありそうだ。

そしてもう一つ。
ここまではどちらかと言えば自分をどこかに連れ出してくれる装置の話だが、自分から仕掛けられることもある。
それが他者への祝福の言葉だ。
祝福と言っても誕生日の友人にお祝いメッセージを送るということではない。
日頃の会話とかメッセージのやり取りの中に、さりげなく、相手の気持ちを明るくする、くすぐるような要素を入れ込むのだ。
発言やコメントの内容そのものでもいいし、態度で示すのもアリかもしれない。
「あの人とのやり取りは、いつも何となく心地良い」
そう思ってもらえたら、それ自体が小さな装置として機能する。

先日とあるエッセイを読んでいたら、こんな言葉を見つけた。
「わたしは人生に多くを期待はしない。むしろいつも人生に驚かされていたい」
なんと潔く気持ち良い一文なのだろう。震えた。
でも、その通りだと思うし、ここで書いてることが目指すのも、多分そういうことだ。

あなたの「想定外をもたらす装置」は何だろう。
その装置は今も、昔と変わらず機能しているだろうか。
これは自分への問いでもあるのだが、冒頭のキャンプの彼女とのやり取りは、それこそ想定外に、色んなことを考えさせてくれた。

不機嫌という支配

もっと家事育児に協力してくれと言うと、だったらお前が働いて大黒柱になるなら俺が家事育児をすると言われる。
時短で働くママが、そんな愚痴をこぼしてるけど、どうすればいいのだろう。


先日の投稿にこんなコメントをもらった。
ママ”たち”と書いていたから、ひとりではないのだろう。

あまり良い返しができずに申し訳ないなと思っていたのだが、冷静に考えると、そのパートナーの方々は何とも卑怯だなと思う。
特に日本の働く現場においては管理職や給与など男女格差が大きい、つまり大黒柱になりたくてもなりづらい状況があると指摘されることが多い中で、自分が稼いでいることを免罪符に家事育児をパートナーに押し付ける。

卑怯という、自分が向けられたら一番嫌な言葉を使ったが、かく言う自分にも覚えがないわけでもない。
稼ぎの中心は自分なので、日々の家事育児で自分の役割はここまでと、どこかでラインを引いている部分は少なからずあると思う。
そしてその、自分で勝手に引いてるラインが破られると不機嫌になる
そういうことが全くないかと問われると、「ありません」と自信を持って答えることはできない。
自分にも無自覚な卑怯な側面があるのかもしれないし、多くの人がそこに気づき、修正していく必要があるのだろう。

けれど声がけや善意だけでは社会全体は変わらない。
そこで思い出すのが、先日とある報道番組で見たオーストラリアの取り組みだ。
オーストラリアではDV起因の犯罪や事件が相次いでいることを受け、DV対策に国家的に本腰を入れているらしい。
最重視されているのは当然のことながら被害者の保護だが、カウンセリングなど加害者構成プログラムも充実しており、番組の中ではとあるカウンセラーがインタビューを受けていた。

60代くらいのこの男性は、彼自身が以前、DVの加害者だった。
それを聞いて、さぞ家庭内でパートナーや子どもに酷い暴力を振るい、その後更生してカウンセラーになったのだろうと想像した。
しかしインタビューの続きで彼は、家庭の中で長い間、機嫌悪く振る舞ってしまっていたと話していた。

え?それDV?
正直なところ、拍子抜けした。

彼がカウンセリングを受けたきっかけは、とある時に怒りが爆発して、車の窓ガラスを殴って割ってしまったこと。
ただインタビューの話しぶりでは、どちらかというと、不機嫌に振る舞っていた状態に問題があり、それが爆発したことが起点となり更生に向けたアクションを始めた。そんなニュアンスのように見受けられた。

身体的な暴力だけでなく心理的・精神的な支配を「強制的支配」として犯罪化したこと。
オーストラリアがDV対策に本腰を入れたと言われる一つの大きな理由は、どうやらそのあたりにあるようだ。具体的には、
ーー
怒鳴る
威圧する
常に監視する
経済的に縛る
孤立させる
家の中で意図的に不機嫌に振る舞い続ける
行動を萎縮させる
ーー
といった行動が強制的支配であり、身体的暴力に至る前の支配と定義されている。
怒鳴りや監視がNGなのは明らかだが、不機嫌もDVであり犯罪である。
これには結構驚いた。
単なる不機嫌ではなく「意図的に」「不機嫌に振る舞い続ける」と書かれているので、いわゆる気分の波とは異なるのだろう。
ただ、先のインタビューの男性は、そこに該当していた認識があるからこそ、更生し、カウンセラーになったのだと思う。

誰しも気分に波があるのは大前提。
けれども家の中での不機嫌は、単なる感情の問題を超え、相手の行動を萎縮させる支配になり得る。そしてその構造は、自分自身の中にも潜んでいるかもしれない。
今日は奇しくも母の日。
自分を生んでくれた母、いつも一緒に動き回っている妻、一緒に働く職場のママさん社員、そして世界中のお母さんたちに感謝しつつ、皆さんご機嫌に過ごせますように!もう夜ですが、、、

統計外のヒーロー

連休中、少し驚いたことがあった。
自宅に招いた友人の中で、ふたり、同年代(40代)の男性が近いうちに仕事を辞める、もしくは仕事時間を半分くらいにすると話していた。
当面の間は妻側を中心に稼いでいき、家計を回していくことにするらしい。
理由は両者とも子どもに起因しており、人生において希少性の高い子どもとの時間を最優先すべく、少なくともあと5年くらいは、そのスタイルでやっていくそうだ。

彼らは保育園のパパ友で、起業家でもFIRE済みでもない、ごく普通の会社員だ。
たった2人のケースに過ぎないし、大いなるバイアスがかかっている可能性もある。
ただ、彼らが揃って似たようなことを口にしていたのを見て、もしかしたら今、統計とかに現れる前の地殻変動的な何かが起きているのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。

1999年に男女共同参画社会基本法が成立して以降、日本では男女間の賃金差解消や男性育休の取得が法的にも整備されつつある。
けれども会社や家庭での実践は伴っておらず、世界からだいぶ取り残されている。
外形的なことが整いつつあるだけに、残念度合いが余計に目立つなぁ。
ちょうど最近、そんなことを考えていたこともあり、冒頭の話はとても印象に残った。

彼らは仕事を辞める、または半分にする決断をしたので、男性育休としてカウントされることはない。
女性が働く代わりに男性が働かなくなってしまったら、国全体としての労働力は増えない。
どちらも国力を図る既存の統計に数値としては出力されなさそうだが、彼らの意思決定は、それ以上の意味をもつ可能性がある。

ちなみに決して、明るく前向きに決断を下したような雰囲気ではなかった。
周囲の目や経済的な不安など、色んな葛藤を踏まえた苦渋の判断だったのだと思う。
それに彼らの決断と行動にかかわらず、日本のジェンダーギャップが遅れたままである事実に変わりはない。
けれど一番難しい人々の意識変革、彼らは既に、その壁を軽々と突破しているように見えた。

これが何か意味を持つものなのかどうか、正直分からない。
ただ、彼らの静かな決断は尊敬に値するし、これから過ごすであろう子供との時間がかけがえのないものとなり、これから子供たちが見て育つ景色こそが新たな価値観を形成していくことになりそうだ

黒崎さんとの思い出ー⑤何が問題かが問題だー

金曜日、黒崎さんの着ていたウールのセーターを、僕に似合いそうだからとオフィスまでわざわざ持ってきてくれた友人がいた。

そこでまた、ひとしきり思い出をしていたのだが、

何が問題かが問題だ。
What is the problem, is the problem.

黒崎さんはよく、そんなことを言っていた。
人は問題を解くことに夢中になりがちだけど、問いを作ることや、自分の中で追い求め続ける問いを持つこと。
大事なのはこういうことだ。
多分それをいろんな形で訴え続けてくれていたはずだし、それは黒崎さん自身が狂気的なまでの実践を通じて、お手本を見せてくれていたのだと思う。

イデーの掲げていた「生活の探究」は黒崎さん自身の問いそのもの。
それ以外にも人との関係性のつくり方とか、粋であることの要素とか、流石と言われる振る舞いとか、常に複合的な問いを携えていて、問い⇄実践を行ったり来たりしていたような気がする。
実践の方法が何かと”会社をつくる”という形態を取るが故に、いとも簡単にサクサク会社をつくるし、僕も常に何かしら出資を求められるし、いくつかは応じてきたのだが。

そして僕自身も10年20年単位の問いの軸を常にいくつか持っており、それについて黒崎さんとの話すことも多かったが、残念でならないことが二つある。
ひとつはアフリカ。Arigatoは名前がいいね、行きたいねと黒崎さんはずっと言ってくれてた。
世界中の多くの場所は黒崎さんから案内されてばかりで、アフリカは僕が案内できる数少ない場所だったのだが、結局お連れすることができなかった。
そしてもう一つは、僕も黒崎さんも大好きな福澤諭吉。
そのスピリットを語らい合う場をつくりましょうとずっと話していたけれど、実現できずに終わってしまった。

後悔しても仕方ないが、さっさと動かなくてはなりませんね!
添付は3年前、僕がプレゼントした福澤諭吉展の図録をじっくり眺める黒崎さん

賢くも切ない幼児の知性

 

昨日、5歳の三男と近くの堤防まで釣りに出かけたのは5時前だった。
昼から夕方まで、それはそれは馬鹿げて賑やかな友人の企画した海の運動会があったので、そこで散々遊び、最後の種目(綱引き)を終えて家で着替え、竿やら餌やらを準備してから向かった。

釣れな〜い。
幼児はすぐにそう言う。いや、釣りってそういうもんだから。
まぁでも、目の前に見えている魚が釣れないのはさすがに言い訳できないので、はじめは川寄りだったけど、徐々に河口へ、そして堤防へとポイントを変えていく。

堤防の先っぽでカサゴを二匹釣り上げた家族がいた。
それを見て、そして家族の子どもたちと何か会話を交わして、三男は、次はあそこでやってみようと提案してきた。

堤防の先っぽで少し沖寄りだからか、そして夕暮れ時でタイミングも合ってきたのか、これまでが嘘のように食いつきがある。
魚影的に多分フグだけど、まぁアタリがあれば楽しいし、もはや何でもいい。
とりあえず一匹釣り上げて、ふたりでガッツポーズ。

さぁ盛り上がってきた、こここらガンガン釣ってくぞ。
そんな空気が盛り上がりつつあったのに、アタリがあってリールを巻く間に糸が切れて、針がどこかへ行ってしまった。

とりあえず一匹釣れたし、アタリも何度もあったし、暗くなって冷えてきたし、そろそろ帰ろうか。
多分、僕がそう言い出すと感じたのだろう。(そして確かに言いかけていた)
彼は自分から「ボクが取ってこようか?」と言ってきた。
この日釣りをした最初のポイント、海岸入り口手前の川の横に自転車を置いてきていて、そこにスペアの針なども置いたままだったのだ。

ゴールデンウィークで人が多いとは言え、夕暮れ時の海。自転車まで割と距離はある。半分は堤防。幼児にとっては大きめサイズの穴や凸凹の連続。ツルツル滑る苔だらけ。そして帰りは手に荷物を抱えている。(しかも似たような針がいくつかあってきちんと選べるかも危うい)

まぁ合理的に判断したら一緒に行く、もしくは撤収が筋かと思ったけど、その僕の判断を完全に見越したような彼からの提案、そして言外に伝わってくる「もっとやりたい」というめちゃシンプルで強い思いに押されてしまった。

ただでさえ小さい体が、そしてただでさえ危なっかしい足元が、小走りで離れて行ってどんどん小さくなって行く。
その後ろ姿が何だか頼もしくも切なくて、見えなくなるまで目で追っている時に、ふと、タイトルに書いた「賢くも切ない幼児の知性」という言葉が頭に浮かんだ。
彼らは嘘をつかないしつけないからこそピュアで、ストレートで、そして繊細で知的。

目当てのものを取って、帰りも何てこともないようにサクサク小走りで軽快に戻ってきた彼。
こっちも当たり前のように受け取り、暗くなるまで一緒に魚を狙い続けた。さっき感じた切なさをひと通り消化し切るまで。
いざ撤収後は堤防でコケて足を擦りむき、血を流して半べそかきながら自転車を漕ぐというオマケ付き。

釣りは、もちろんそれだけで古来から人を魅了してきたが、子どもがいると、それはまた別のエクスペリエンスとなって、色んな喜怒哀楽(では到底表現できない色んな感情)をもたらしてくれる。
釣りそのものはいつでも楽しめるが、幼児と楽しむ釣りは子どもが幼児の間しかできない。
もちろん、ここで言う「釣り」は料理にもスポーツにも言い換えられるし、「生活」と言い換えることもできる。

子どもはこんなに可愛くて楽しいのに、特にメディア上では、育児の負担とかコストという文脈だけで語られ過ぎだと感じて、何かコツみたいなものを伝えたくて本を書いたのが2年前。
今も細々とお買い上げいただいているようなので、もしご興味ありましたら僕の名前で検索して買ってみてください。

そして三男ももうすぐで6歳。
もう15年くらい楽しんできたwith幼児エクスペリエンスも、いよいよ残すところあと僅かとなってきたので、改めてその日々を噛み締めていきたいところ。
皆さんもぜひ、楽しんで!