子どもの幸福を願うのは、全ての親の共通の願い。
けれど幸福ほど外部から届けることが難しいものはなく、一番手にして欲しいものなのに、そればっかりは、自分で獲得したり、感じ取ってもらう他ない。
親ができるのは、せめて、助走に付き合ったり、最低限の補助線を引いてあげたりすることくらい。
でも、その助走や補助線も、度が過ぎると結局は毒となり、自分で幸福を掴んだり感じ取る力を損ねてしまったりする。
昔みたいに貧しければ、そもそも出来ることは限られていただろうし、子どもが5人も10人もいれば何人か出来が悪くても気にならなかったはず。
けれど今は経済的に割と豊かになったし、子どもも減ったので意識は自ずとひとり、ふたりに集中する。
僕は今、3人の子どもたちと暮らしていて、子どもたちとの暮らしが始まってから15-6年になるが、いくつか自分に言い聞かせていることがある。
それは日本語と数字をある程度自由に扱えるようになること。
そして朝起きて夜は寝る生活のリズムを崩さず、できるだけ一緒に食事をすること。
それさえ達成できれば、あとは本人たちの興味に任せること。
言い聞かせるのは子どもに対してではなく、自分。
なぜなら、こうして書くほど割と強めの意志を持っていたとしても、ついつい力むことがあるから。
多くはないが、過度に口出ししている場面もきっとある。
けれど、その口出しは本当に子どもに向けたものだろうか。
自分の安心のためではないだろうか。
そこを、よくよく考える必要があると思う。
人の言っていることを理解し、文章や本を読むことができる。
自分の感情や意見を話したり、書いたりすることができる。
数字の意味することを把握し、意思疎通を図ることができる。
そして何より良いやつで、目の前の状況を楽しむことができる。
無限の情報にアクセスできる今の社会で、これ以上に何が「スターターキット」の中に必要なのだろう?
答えはないが、安易に答えを与えることだけはしたくない。
明日、近所の小学校PTAにお招きいただき、親御さん向けに育児について話す機会がある。
以前、本を書いた余波が今も細々と続いているのだが、こういう場で、いろんな家庭の在り方や様子が垣間見えたり、参考にできること。
俺流を押し付けるつもりなど全くなく、そういう状況の生まれることを願っていたので、どんな風になるか楽しみなのです
黒崎さんとの思い出⑥ー状況を作るー

黒崎さんはよく「状況を作る」という言い方をしていた。
状況という言葉は通常、今または過去のことに使われることが多い。そしてどちらかというと客観的に表現する時に使われる言葉だ。
けれど黒崎さんの言う「状況を作る」は明らかに未来を指していて、客観性よりも主観、つまり自分がその状況を作る。そういう文脈で使われていた。
その違和感・ざらざら感があったから、記憶力の弱い僕の脳内にも定着したのだろう。
先日開催されたお別れの会は、まるで黒崎さん亡き後も慣性の法則が働いているような、そんなひとつの状況だった。
ひとつ特徴的なのは、そこに参加したであろう多くの人たちが、それぞれ思い思いの形で黒崎さんとの邂逅を語ったり、投稿したりしていること。
それは会から4日経過した今日も続いており、その余韻が長引く感じと、その裾野の広さは改めて、レジェンドと言う他ない。
そして、この現象はきっと、単なる起業家ではなく(であれば社員や取引先、企業仲間が集うはず)、はたまた単なる教育者でもなく(であれば生徒や同僚が集うはず)、状況を作ることに命をかけ、実際に多くの人たちに、その状況に触れたり体験させたりしてきたからこその現象なのだろう。
自分なりにそう理解しているが、逆に言うと、それ以外の解釈の方法が思い浮かばない。
そらくらい常軌を逸した、特別な人とのお別れだったのだと思う。
そう考えると、黒崎さんと一緒に過ごした時間をもっと大切にすれば良かった気もするし、お別れの会の後半で担当させてもらったスピーチも、もっと気の利いた話をすれば良かったのかもしれない。
けれど黒崎さんはかしこまったスタイルは好まないので、適度に抜けてて良かった気もするし、どこかでニコッと笑って「いいじゃん」と言ってくれそうな気もする。
正直なところ、今もとっても悲しくて、寂しい。人間が内側に抱く感情ほどコントロールできないものはないので、しばしの間はこの感情と付き合いつつ、自分も、黒崎さんのような奇跡の状況を作れるかどうかは分からないけど、良い人たちと、流石と言われる仕事をしていきたい
想定外をもたらす装置

先日の採用面談で面白い話を聞いた。
彼女はよくキャンプに行くという。
固定メンバーは彼女と、行きつけの居酒屋の店主。
それ以外のメンバーは毎回バラバラで、基本的には居酒屋の常連。
はじめましての人も少なくなく、そういうメンバー数人と待ち合わせて、彼女の車に乗り込み現地に向かうこともよくあるらしい。
でも居酒屋の店主とは親しく、信頼できるので、その人が声かける常連ということで危険な思いをしたことは一度もない。
むしろ毎回色んな人と交流できるのが楽しく、月いちくらいのペースで行っていると話してくれた。
誰が来るかは分からないが、まったくの他人でもない。
店主への信頼、居酒屋というゆるい共同体、そして月に一度というリズム。
だから彼女は、知らない人と車に乗り、長い時間を共にすることを楽しめる。
これは「想定外をもたらす装置」だなと感じた。
そもそも装置というのは想定通り動くことを期待するものなので、より正確には「想定外を想定通りもたらす装置」だろうか。
人が日々の生活を送っていく上で、全てが想定外で思い通りにいかないことは辛い。
しかし、だからと言って全てが想定内というのも相当しんどい。
すべてがスイッチのオン/オフのように思い通りになる人生。
多分、そんなことになったら人はすぐに病むと思う。
つまり一定の刺激や発見、そして楽しさのためには、程良い想定外が生活の中に組み込まれていることが大切なわけだが、彼女のキャンプはそれを体現している。
ではこの「想定外をもたらす装置」を、どうすれば我々は実装できるのだろうか。
少し考えてみたのだが、この装置は実装するというよりも、既に私たちの生活に実装されているような気もする。
例えば趣味。
スポーツ(プレイ、観戦共に)もカメラも、そしてみんな大好き推し活も、その熱意は人を色んな場所に連れて行ってくれるし、感動をもたらしてくれる。
何が起きるかは実際にその段になってみないと分からない、けれど何かは起きる。
これは立派な「想定外をもたらす装置」と言える。
仕事もそうだ。
本来、仕事は想定外を減らす営みが中心。
計画を立て、段取りを整え、リスクを潰していく。
でも実際には、予定通りに進む仕事などほとんどない。
トラブルが起き、誰かに助けを求め、思いがけない場所に行き、知らない人と組むことになる。
仕事の面白さは、案外そのあたりにある。
次は子ども。
あれをしたい、これは嫌だ、抱っこ、おしっこ。
彼らの動きは刹那的で読めないことが多いが、その想定外の行動が故に可愛くもある。
そして面白いのは、彼らと一緒だと、ただ道を歩くことすら楽しくなるし、彼らが行きたいと言えば、想像もしなかった場所に出向くことになる。
子どもの繋がりがもたらす大人同士の繋がりというのも、また一興だったりする。
他にも旅とかペット、パートナーの存在とかも一例だと思うが、とにかく自分を想定外の場所に連れて行ってくれる入口は、案外身近なところにありそうだ。
そしてもう一つ。
ここまではどちらかと言えば自分をどこかに連れ出してくれる装置の話だが、自分から仕掛けられることもある。
それが他者への祝福の言葉だ。
祝福と言っても誕生日の友人にお祝いメッセージを送るということではない。
日頃の会話とかメッセージのやり取りの中に、さりげなく、相手の気持ちを明るくする、くすぐるような要素を入れ込むのだ。
発言やコメントの内容そのものでもいいし、態度で示すのもアリかもしれない。
「あの人とのやり取りは、いつも何となく心地良い」
そう思ってもらえたら、それ自体が小さな装置として機能する。
先日とあるエッセイを読んでいたら、こんな言葉を見つけた。
「わたしは人生に多くを期待はしない。むしろいつも人生に驚かされていたい」
なんと潔く気持ち良い一文なのだろう。震えた。
でも、その通りだと思うし、ここで書いてることが目指すのも、多分そういうことだ。
あなたの「想定外をもたらす装置」は何だろう。
その装置は今も、昔と変わらず機能しているだろうか。
これは自分への問いでもあるのだが、冒頭のキャンプの彼女とのやり取りは、それこそ想定外に、色んなことを考えさせてくれた。
不機嫌という支配
もっと家事育児に協力してくれと言うと、だったらお前が働いて大黒柱になるなら俺が家事育児をすると言われる。
時短で働くママが、そんな愚痴をこぼしてるけど、どうすればいいのだろう。
先日の投稿にこんなコメントをもらった。
ママ”たち”と書いていたから、ひとりではないのだろう。
あまり良い返しができずに申し訳ないなと思っていたのだが、冷静に考えると、そのパートナーの方々は何とも卑怯だなと思う。
特に日本の働く現場においては管理職や給与など男女格差が大きい、つまり大黒柱になりたくてもなりづらい状況があると指摘されることが多い中で、自分が稼いでいることを免罪符に家事育児をパートナーに押し付ける。
卑怯という、自分が向けられたら一番嫌な言葉を使ったが、かく言う自分にも覚えがないわけでもない。
稼ぎの中心は自分なので、日々の家事育児で自分の役割はここまでと、どこかでラインを引いている部分は少なからずあると思う。
そしてその、自分で勝手に引いてるラインが破られると不機嫌になる
そういうことが全くないかと問われると、「ありません」と自信を持って答えることはできない。
自分にも無自覚な卑怯な側面があるのかもしれないし、多くの人がそこに気づき、修正していく必要があるのだろう。
けれど声がけや善意だけでは社会全体は変わらない。
そこで思い出すのが、先日とある報道番組で見たオーストラリアの取り組みだ。
オーストラリアではDV起因の犯罪や事件が相次いでいることを受け、DV対策に国家的に本腰を入れているらしい。
最重視されているのは当然のことながら被害者の保護だが、カウンセリングなど加害者構成プログラムも充実しており、番組の中ではとあるカウンセラーがインタビューを受けていた。
60代くらいのこの男性は、彼自身が以前、DVの加害者だった。
それを聞いて、さぞ家庭内でパートナーや子どもに酷い暴力を振るい、その後更生してカウンセラーになったのだろうと想像した。
しかしインタビューの続きで彼は、家庭の中で長い間、機嫌悪く振る舞ってしまっていたと話していた。
え?それDV?
正直なところ、拍子抜けした。
彼がカウンセリングを受けたきっかけは、とある時に怒りが爆発して、車の窓ガラスを殴って割ってしまったこと。
ただインタビューの話しぶりでは、どちらかというと、不機嫌に振る舞っていた状態に問題があり、それが爆発したことが起点となり更生に向けたアクションを始めた。そんなニュアンスのように見受けられた。
身体的な暴力だけでなく心理的・精神的な支配を「強制的支配」として犯罪化したこと。
オーストラリアがDV対策に本腰を入れたと言われる一つの大きな理由は、どうやらそのあたりにあるようだ。具体的には、
ーー
怒鳴る
威圧する
常に監視する
経済的に縛る
孤立させる
家の中で意図的に不機嫌に振る舞い続ける
行動を萎縮させる
ーー
といった行動が強制的支配であり、身体的暴力に至る前の支配と定義されている。
怒鳴りや監視がNGなのは明らかだが、不機嫌もDVであり犯罪である。
これには結構驚いた。
単なる不機嫌ではなく「意図的に」「不機嫌に振る舞い続ける」と書かれているので、いわゆる気分の波とは異なるのだろう。
ただ、先のインタビューの男性は、そこに該当していた認識があるからこそ、更生し、カウンセラーになったのだと思う。
誰しも気分に波があるのは大前提。
けれども家の中での不機嫌は、単なる感情の問題を超え、相手の行動を萎縮させる支配になり得る。そしてその構造は、自分自身の中にも潜んでいるかもしれない。
今日は奇しくも母の日。
自分を生んでくれた母、いつも一緒に動き回っている妻、一緒に働く職場のママさん社員、そして世界中のお母さんたちに感謝しつつ、皆さんご機嫌に過ごせますように!もう夜ですが、、、
統計外のヒーロー
連休中、少し驚いたことがあった。
自宅に招いた友人の中で、ふたり、同年代(40代)の男性が近いうちに仕事を辞める、もしくは仕事時間を半分くらいにすると話していた。
当面の間は妻側を中心に稼いでいき、家計を回していくことにするらしい。
理由は両者とも子どもに起因しており、人生において希少性の高い子どもとの時間を最優先すべく、少なくともあと5年くらいは、そのスタイルでやっていくそうだ。
彼らは保育園のパパ友で、起業家でもFIRE済みでもない、ごく普通の会社員だ。
たった2人のケースに過ぎないし、大いなるバイアスがかかっている可能性もある。
ただ、彼らが揃って似たようなことを口にしていたのを見て、もしかしたら今、統計とかに現れる前の地殻変動的な何かが起きているのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
1999年に男女共同参画社会基本法が成立して以降、日本では男女間の賃金差解消や男性育休の取得が法的にも整備されつつある。
けれども会社や家庭での実践は伴っておらず、世界からだいぶ取り残されている。
外形的なことが整いつつあるだけに、残念度合いが余計に目立つなぁ。
ちょうど最近、そんなことを考えていたこともあり、冒頭の話はとても印象に残った。
彼らは仕事を辞める、または半分にする決断をしたので、男性育休としてカウントされることはない。
女性が働く代わりに男性が働かなくなってしまったら、国全体としての労働力は増えない。
どちらも国力を図る既存の統計に数値としては出力されなさそうだが、彼らの意思決定は、それ以上の意味をもつ可能性がある。
ちなみに決して、明るく前向きに決断を下したような雰囲気ではなかった。
周囲の目や経済的な不安など、色んな葛藤を踏まえた苦渋の判断だったのだと思う。
それに彼らの決断と行動にかかわらず、日本のジェンダーギャップが遅れたままである事実に変わりはない。
けれど一番難しい人々の意識変革、彼らは既に、その壁を軽々と突破しているように見えた。
これが何か意味を持つものなのかどうか、正直分からない。
ただ、彼らの静かな決断は尊敬に値するし、これから過ごすであろう子供との時間がかけがえのないものとなり、これから子供たちが見て育つ景色こそが新たな価値観を形成していくことになりそうだ