オフレコは「宣言」ではなく「空気」なのか。

何かと話題のオフレコについてちょっと書いてみたいと思います。

そもそもオフレコとは何なのか。ソーシャルメディアの発達であらゆる行動や発言は共有されつつあるけれど、やっぱりオフレコという概念は今後も有効なのかなと思います。 それは小学生が親友だけに誰が好きかを打ち明ける行為と何ら変わらないし、そういうオフレコ話、コソコソ話をする&されることで得られるより一層固い絆というものは存在するからです。

今回、大臣は辞めてしまわれましたが、もし本当にオフレコと約束していたのであれば、やはりそれを報道する側に問題があると思います。約束は、約束。 それがどんなに刺激的で面白い発言だったとしても、大衆の注目を集めてテレビの視聴率や新聞の発行部数を伸ばせるものだとしても、心の中にぐっと閉じ込めておくべき類のものだと思うのです。

一方で政治家が、ちょっとマズい発言をしたらすぐに「これはオフレコやからな」と自己防衛するような、そんな傾向もあるように見えます。

先日、宮城県知事との面談の際の悪態で糾弾された元松本復興大臣のオフレコ発言が、まさにそんな感じでした。「これはオフレコやで!」と言い放つだけなのです。これじゃオフレコにはなりませんね。。

こう書いていて思うのは、オフレコとは「宣言」ではなく「空気」なのかなと思います。

偉い人だって、少し悪のりして冗談言うこともあるでしょうし、その方がきっと取り巻きだって楽しい。 でも「この人を応援したい」と思わせることに成功すればオフレコ漏洩は起きないだろうし、逆に「漏らしたことがバレたら殺される」と思わせられれば、それはそれで漏洩は起きないでしょう。

いずれにせよ「この発言はリリースしたらマズいんだ」と伝える、というか感じさせる能力が今の政治家には欠如しているのかなと思うのです。

それはもしかしたら、上意下達に慣れ親しんだ年輩世代と、情報も組織もフラットな形態に慣れ親しんだ世代のギャップによるものなのかも?という気もしますが、長くなりそうなのでこの辺で。