書評:教えるということ

学校の教員があまりにも忙し過ぎて可愛そうだと言われて久しい。僕も全く同感だし、それはメディアからの情報だけでなく、子供の通う学校からも色んな形で伝わってくる。英語授業、PC導入、アレルギー対応、モンスターピアレント対応、からのギガスクール構想にコロナ対応、、、それらを決して好待遇とも言えない環境下でこなしてくださっている。感謝しかない。

最近、訳あって学校教育の現状について調べているのだけれど、上記のような状況の中で各学校に数名の長期休業者が出てくるのも致し方ないように思えてくるし、学校運営のDXはもちろんのこと、とにかく教員の方々の過酷な状況を改善すべく思いつく限りの手を打つべきという意見に反論の余地はなく、学校や先生はもっともっと社会的にケア・保護されるべきと思う。

けれど、その先に何が待ち構えているのか、もし事が理想的に進んで先生方の負担が大幅に軽くなった時、教員は何に注力できるのか。先生という職業はどう難しく、そしてどう厳しいのか。教員のみならず、その事実に多くの人が気づき意識を向けるほど、先生方が本来業務に集中できる環境を整えるべしという機運が盛り上がるのではないか。そんな示唆を、背筋のピンと伸びるような形で提示してくれるのが、本著『教えるということ』だ。 著者は昭和初期、女性教師ですら珍しかった時代に生涯現役を貫いた方なので、まるでアスリートのような規律正しい職業観がビンビン伝わってくる。けれどそこで描かれている教師のあるべき姿は、全くブレることがない。 学校や教育に関する議論は多くの人に関係するし、身に覚えがあるだけに、何かと盛り上がるし皆それぞれ意見がある。けれど、まずは少し古いけれど「そもそも論」を通じてブレることのない北極星の位置を確認しできると、話が良い方向に向かいやすいのではないかと感じる。

以下、それぞれ多少長いけれど印象に残った部分を一部引用してみる。正座したくなります笑

研究することは「先生」の資格 先ほど、「作文の研究じゃいけないんですか!」と怒ったという話をしましたが(私はまた、「研究」をしない教師は、「先生」ではないと思います。まあ、今ではいくらか寛大になって、毎日でなくてもいいかもしれないとも思ったりしますが…。とにかく、「研究」ということから離れてしまった人というのは、私は、年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思います。つまり、前進しようという気持ちがないわけですから。それに、研究ということは苦しいことです。ほんの少し喜びがあって、あとは全部苦しみです。その喜びは、かけがえのない貴重なものですが。研究ということは、「伸びたい」という気持ちがたくさんあって、それに燃えないとできないことです。少しでも忙しければ、すぐおるすになってしまいます。なぜ、研究をしない教師は「先生」と思わないかと申しますと、子どもというのは、「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思うからです。いくつであっても、伸びたくて伸びたくて・・・。学力もなくて、頭も悪くてという人も、伸びたいという精神においては、みな同じだと思います。一歩でも前進したくてたまらないのです。そして、力をつけたくかたまりて、希望に燃えている、その塊が子どもなのです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子どもたちなのです。研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。研究をせず、子どもと同じ世界にいない教師は、まず「先生」としては失格だと思います。子どもと同じ世界にいたければ、精神修養なんかではとてもだめで、自分が研究しつづけていなければなりません。研究の苦しみと喜びを身をもって知り、味わっている人は、いくつになっても青年であり、子どもの友であると思います。それを失ってしまったらもうだめです。いくら年が若くて、子どもをかわいいというまなざしで見たり、かわいいということばをかけたり、いっしょに遊んだりしたとしても、そんなことは、たわいもないことだと思います。いっしょに遊んでやれば、子どもと同じ世界にいられるなどと考えるのは、あまりに安易にすぎませんかそうではないのです。もっともっと大事なことは、研究をしていて、勉強の苦しみと喜びとをひしひしと、日に日に感じていること、そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。私は、これこそ教師の資格だと思います。

教えない教師 「読んできましたか」という検査官 私は今日、「教えるということ」を題にしました。なぜかと申しますと、「教える」ということをしない教師がたくさんいて、困るからです。それでは、「教えない」というのはどういうことなのでしょうか例えば、国語の場合、よくこういうことがあります。まず、教室に子どもを入れて、開ロ一番、「読んできましたか」という人がありま|す。これは何も教えないということになりませんか。学校はあくまで「学校」で、学一習するところです。教室は学習室なのです。「家庭」は学校の勉強をするところではありません。「生活の場所」であって、勉強は、もしあるにしても、片隅に存在しているでしょう。ないかもしれません。とにかく、「家庭」は勉強室でないことは確実なことです。生活の場なのです。そこは子どもにとって、勉強をもちこむこと自体、多少の問題があるところなのです。ところが、本来の学習室である学校を学習室にしないで、「読んできましたか」というのは、「読む」といういちばん大事なことは家庭でやるわけですから、それでは家庭が勉強の場所になり、学校は検査室になります。読んできたかどうかをみる検査室、読めるかどうか調べる所、おっかない場所ですね、学校は。私は、そういう教師が多いということを、たいへん強く感じます。みなさんはいかがですか。みなさんの学校時代に、「読んできたか」と言われませんでしたか。「よく読んで、上手に読めるようにしてこい」と言われたでしょう。*先生に読み方を習おう。“先生に字を教えてもらおう。と思って、一生懸命になって、「先生、おはようございます」と教室にはいってきた子どもたち……。それなのに、「読んできたか」と検査するというのは、“先生の面目いずこにありや。と私は言いたくなります。

素人教師と玄人教師 「いい人」なんてあたりまえ よく「いい人」ということを誇りにするかたがあるのですけれど、私はそんなことを誇りにすることはおかしいような気がします。悪い人ではたまったものではないと思います。およそ教師ではなくとも、いい人などということは、つまり、人間だというのと同じ意味で、人間だれしも悪い人であってよいわけがありません。それだけでは教師とは言わないのであって、やはり未来の建設に役立つ人間を確実に育て上げる人、育て上げようとしている人だけが教師なのです。「いい人」などということは、誇りでもなんでもなくて、そんなことを言うだけおかしいと思います。それなのに、教師の世界では比較的というよりも、いろいろな職業の中で、いちばん「いい人」ということが幅をきかせているように思います。他の社会では、「いい人」ということを切り離しては、そんなにまで尊重されません。貴重なのは、やはり仕事のできる人ではないでしょうか。

<中略>

私は、子どもがかわいいのであれば、子どもをとにかく少しでもよくしていける、教師という職業人としての技術、専門職としての実力をもつことだ、子どもをほんとにかわいがる、幸せにする方法は、そのほかにはないと思います。それ以外のことはみんな二次的なことだと思います。遊んでやるのもよいし、頭をなでてやるのもよいし、やさしいことばをかけるのも結構、しかしそれらはみな二次的なことです。それはやってもよいというだけの話で、それさえやっていればよいということではない。やはり、自分の研究の成果、すぐれた指導の実力によって、子どもをほんとうにみがき上げることです。つまり、しっかり教えられなければ、頭をなでても、いっしょに遊んでやっても、それはたいした値うちをもたないのだと思います。

<中略>

子どもをかわいいというのでしたら、子どもが一人で生きるときに泣くことのないようにしてやりたいと思います。今のうちなら、たとい、勉強が苦しくて泣いていたってかまわないのですが、いちばん大事な時に泣かないようにしてやりたいと思います。今日のこの幸せの中にいる時には、頭をなでてもなでなくても同じことだと思います。一人で生きるときに、不自由なく、力いっぱい生きていける、そういう子どもにしていかなければ子どもは不幸です。子どもを不幸にするようなことをしていて、愛情をもっていたなどと言ってみても、どうなりましょう。