意見と人格の分離

ふと思ったことをtweetしようとしたら、整理してるうちに長くなってしまったのでここに投下。師走ですが、何か参考になれば嬉しいです。 「意見と人格の分離」 家庭でも仕事でも、人格と意見はできる限り切り離す傾向で物事を捉え考えていく方が、結果的にスムーズであったり楽に生きられることが多いように思う。

文字で書くと当たり前のように見えるのだけれど、これができていないが故に無用なトラブルやギスギスを量産しているケースは少なくない気がするので、少し書いてみる。

意見って何よ?人格って何よ?各種の意見の総体が人格なのだから意見も人格も似たようなものなの、つまり「意見が違うやつは人格否定に値する」という”意見”も一応、筋は通っていると思う。

でも長年連れ添った仲良しの夫婦にも、支持政党の違いや借家か持ち家かに関する意見の相違は程度の差こそあれあるわけで、やっぱり意見=人格とするのは無理があるような気がする。

最近よく聞くようになった「心理的安全性」という言葉も、根っこの部分ではこの”意見と人格の分離”と強い関連性があるような気がしていて、どんな奇抜な意見や上司・年配者と異なる意見で対立が生まれても、自分の人格そのものを否定されることはないという安心感。多分それが心理的安全性ということなのではなかろうか。

そして大事なポイントは、この「意見と人格の分離」は、主に2つの方法で個人的にも組織的にも鍛錬できる点だと思う。その2つとは心がけと決め事だ。

心がけというのは文字通り心がけで、異なる意見を目の前にしても、まずは相手の意見を自分なりに咀嚼できるよう努めること。(もちろん親子でも。)その際、もし最初に「あなたの意見にちょっと違和感があるのだけれど、いくつか質問してもいい?」みたいに問いかければ、結果的に意見の否定になったとしても、相手は自分の意見が十分理解されている、または理解しようと努力されたことは把握しているので、そこまで険悪な雰囲気に陥ることはないと思う。

その上で、そんなやり取りを暫く続けていれば、やがて双方が納得できる落とし所が見つかるケースは少なくない。

そして決め事というのは、落とし所が見つからなかった際はどう決めるのか、の合意を作っておくということだ。 それが会社組織であれば役職や担当ということになるのだろう。議論は尽くした、でも決定的な解や落とし所は見つからない。では、より俯瞰できる責任を取る立場の人や、もしくは若くとも一番思考量と行動量が多そうな担当者の判断に任せよう、みたいな流れになるのだと思う。

家庭の場合だとどう分担を決めるのが良いのか、今ここでうまく明文化できないけれど、でも似たような考え方が適用できるのではなかろうか。

ちなみにこれは、あくまでも鍛錬なのでスイッチのオンオフみたいに「昨日できなかったことが、今日できた」みたいな類の話ではない。徐々にできるようになってきた(かも?)という濃淡マター。 でも、少なくとも会社とかだと、特に組織を管掌する立場の人が日頃からここで書いたようなことを提案したり実践していれば、そして実践できていないケースを目の当たりにした際に適切に処理(優しくたしなめるなど)していけば、意外と早く「意見と人格の分離」が当たり前の文化は醸成できるのではないかと思う。