賢くも切ない幼児の知性

 

昨日、5歳の三男と近くの堤防まで釣りに出かけたのは5時前だった。
昼から夕方まで、それはそれは馬鹿げて賑やかな友人の企画した海の運動会があったので、そこで散々遊び、最後の種目(綱引き)を終えて家で着替え、竿やら餌やらを準備してから向かった。

釣れな〜い。
幼児はすぐにそう言う。いや、釣りってそういうもんだから。
まぁでも、目の前に見えている魚が釣れないのはさすがに言い訳できないので、はじめは川寄りだったけど、徐々に河口へ、そして堤防へとポイントを変えていく。

堤防の先っぽでカサゴを二匹釣り上げた家族がいた。
それを見て、そして家族の子どもたちと何か会話を交わして、三男は、次はあそこでやってみようと提案してきた。

堤防の先っぽで少し沖寄りだからか、そして夕暮れ時でタイミングも合ってきたのか、これまでが嘘のように食いつきがある。
魚影的に多分フグだけど、まぁアタリがあれば楽しいし、もはや何でもいい。
とりあえず一匹釣り上げて、ふたりでガッツポーズ。

さぁ盛り上がってきた、こここらガンガン釣ってくぞ。
そんな空気が盛り上がりつつあったのに、アタリがあってリールを巻く間に糸が切れて、針がどこかへ行ってしまった。

とりあえず一匹釣れたし、アタリも何度もあったし、暗くなって冷えてきたし、そろそろ帰ろうか。
多分、僕がそう言い出すと感じたのだろう。(そして確かに言いかけていた)
彼は自分から「ボクが取ってこようか?」と言ってきた。
この日釣りをした最初のポイント、海岸入り口手前の川の横に自転車を置いてきていて、そこにスペアの針なども置いたままだったのだ。

ゴールデンウィークで人が多いとは言え、夕暮れ時の海。自転車まで割と距離はある。半分は堤防。幼児にとっては大きめサイズの穴や凸凹の連続。ツルツル滑る苔だらけ。そして帰りは手に荷物を抱えている。(しかも似たような針がいくつかあってきちんと選べるかも危うい)

まぁ合理的に判断したら一緒に行く、もしくは撤収が筋かと思ったけど、その僕の判断を完全に見越したような彼からの提案、そして言外に伝わってくる「もっとやりたい」というめちゃシンプルで強い思いに押されてしまった。

ただでさえ小さい体が、そしてただでさえ危なっかしい足元が、小走りで離れて行ってどんどん小さくなって行く。
その後ろ姿が何だか頼もしくも切なくて、見えなくなるまで目で追っている時に、ふと、タイトルに書いた「賢くも切ない幼児の知性」という言葉が頭に浮かんだ。
彼らは嘘をつかないしつけないからこそピュアで、ストレートで、そして繊細で知的。

目当てのものを取って、帰りも何てこともないようにサクサク小走りで軽快に戻ってきた彼。
こっちも当たり前のように受け取り、暗くなるまで一緒に魚を狙い続けた。さっき感じた切なさをひと通り消化し切るまで。
いざ撤収後は堤防でコケて足を擦りむき、血を流して半べそかきながら自転車を漕ぐというオマケ付き。

釣りは、もちろんそれだけで古来から人を魅了してきたが、子どもがいると、それはまた別のエクスペリエンスとなって、色んな喜怒哀楽(では到底表現できない色んな感情)をもたらしてくれる。
釣りそのものはいつでも楽しめるが、幼児と楽しむ釣りは子どもが幼児の間しかできない。
もちろん、ここで言う「釣り」は料理にもスポーツにも言い換えられるし、「生活」と言い換えることもできる。

子どもはこんなに可愛くて楽しいのに、特にメディア上では、育児の負担とかコストという文脈だけで語られ過ぎだと感じて、何かコツみたいなものを伝えたくて本を書いたのが2年前。
今も細々とお買い上げいただいているようなので、もしご興味ありましたら僕の名前で検索して買ってみてください。

そして三男ももうすぐで6歳。
もう15年くらい楽しんできたwith幼児エクスペリエンスも、いよいよ残すところあと僅かとなってきたので、改めてその日々を噛み締めていきたいところ。
皆さんもぜひ、楽しんで!