
「助けてほしい」。
その一言を言えれば楽になる場面は、きっと世界中にたくさんある。
でも実際には、それを言えずに苦しんでいる人も多い。場合によっては、そのことが命に関わったり、よからぬものにすがってしまうことさえある。
助けて欲しいと、言えばいいのに。
でもこれは言うは易しで、人には、そして時によって、さまざまな状況があるところが、事を難しくしている。
「大丈夫?」と聞かれてしまえば「ダメです」と言える人は少ないし、自分が言い出しっぺの何かで困った場合には助けてとは言いづらい。
昔、助けを求めたのに誰も応じてくれなかったことが、助けを求めなくさせてしまった可能性は誰にもあり得る。
助けてと言われたら、応じるのか。
家庭で、職場で、道端で、助けを求められたら応じるか。どういうシーンまで応じるか。自分の状況や感情に拠るところも大きそう。逆に自分では何もせずに助けを求めてくる人もいる。
「自立は、依存先を増やすこと」の言葉で有名な熊谷さんは、道端で便を漏らしてしまった時に助けを求めて、応じてくれる人は最初に向けられる眼差しで分かると以前書いていた。
でもやっぱり「助けて」は必要。
生活や仕事がしんどい時、子どもと向き合う余力がない時、もう眠れず食べられず崖っぷちな時。助けてと言えるかどうかは大きな分かれ道になる。
助けてを言えるか、言えないか。スキルの問題かもしれないし、勇気かもしれない。そういう必修科目が、義務教育の一環であっても良さそうだけれど。(もしあったら、少し担当してみたい)
そういえば以前、ドイツ人の友人は雨の強い日、平然と「車でついでに迎えに来てもらえる」と連絡をしてきたことがあった。もちろん、全然悪い気はしなかった。
最近、書籍では「ケア」という言葉を含むものをよく見かけるようになった。おそらくそれは高齢化社会に伴うものである可能性が高そうだが、何となく「ケア」は、助けるとかお節介するとか、そういう言葉よりも柔らかいニュアンスがあって、控えめな日本人には馴染みやすいのだろうか。声がけ、的な。
でも、あくまでも「ケアする」側の視点の言葉であり「ケアして」はさすがに違和感があるので、やはり「助けて」が必要だ。
いつでも、誰でも、「助けて」は言っていい。
ダラダラと特別な主張もなく書いてしまったけれど、要するに、そんな当たり前のことを、あらためて書いてみたかった。
添付は5歳の三男坊。このくらいだとまだ「助けて」に躊躇がない。子どものように描けるようになるまでに一生かかった、とはピカソの言葉だが、それはどうやら、絵を描くスキルだけの話ではなさそうだ