自分の考えていることは自分で分かっているし、自分の体を自分で感じたり見たりすることはできるけれど、自分の顔だけは自分で直接目で見ることができないということが、たまにふと不思議に思えてきます。 けれど、自分には見えないはずのその顔を、周囲にいる家族や友人や同僚は当たり前のように見ているし、むしろ自分のことはその顔で、自分んが見たことのないその顔の人物として認識されている。 自分にとって一番自分らしく当たり前であるはずの顔を自分で見ることができず、自分とは関係のない他者の方がむしろ詳しい。そのギャップが何とも不思議で面白いと思いませんか。 ユクスキュルの「環世界」は、異なる生物は全く違う方法で物理世界を認知しており見えている世界は全く違うぞという話で、その考えを安易に人間の意識に転用するのはよろしくないかもですが、このあたりの考察は、たとえ親と子、先生と生徒、親友同士でも全く見えている世界は異なり、その前提で物事に取り組むと無用なトラブルが減るように思います。 かくいう僕も、想像以上に伝わっていなかったり違う形で受け取られていたり、そういうことも割と日常茶飯事なので、日々精進です。あれですね、「個を尊重しましょう」というのは特に個を尊重しない人にとっては響きづらいように思うのですが、あなたの顔をあなたは直接自分の目で見たことないけど他の人はみんな見ているのよ!(それくらいみんな見えてるものが違うのでまずそれを認識しようね)というのは一歩目として悪くないかもですね。そうでもないかな