経験価値のボラティリティ

70322517_10157111611518347_7889734156861571072_n

祖父が昨日朝に亡くなったのだが、人の最期はつくづく早いなと毎回思う。母方の祖父母の時も、義理の祖母の時も、そうだった。元気な姿の余韻が鮮明に残るほど、急に逝ってしまう。ピンピンコロリが良いと日頃から言っていた祖父にはぴったりの最期だったのがせめてもの救いだ。 それにしても、長男次男のおたふく風邪、からの僕のぎっくり腰、時々妻のケータリング祭り(クライアント募集中)、からの今回の出来事で比較的カオスだった(今朝、久々に次男を登園させようと思いきやおたふく風邪完治の登園許可証がなく預かりNG、がPEAK OF CHAOS)ものの、それでも仕事や会社が回っているのはありがたい限り! 今日、少し驚いたのは実家に安置されていた祖父の亡骸に対峙した際の次男の反応だ。僕は次男と同じ5-6歳の頃、初めて葬式に参列して曽祖母の死に顔を見た際に結構怖さを抱いた印象があるのだが、次男はかなりケロッとしていて納棺式にも冒頭数分本人の申し出で参加していたほどだ。事前に、死んでると言ってもまるで眠っているような感じだということをそれとなく伝えていたことに加え、我が家の慣習的に身内が亡くなっても涙というより笑いが飛び交う朗らかな雰囲気などが彼に怖さを抱かせなかった主因だと思うのだが、似たような経験も環境次第で捉え方が大きく異なることに新鮮な驚きを感じた。 最近、何かと話題を振りまく友人が価格自由というプロジェクトを始めてまた耳目を集めているが、価格自由つまり投げ銭的な概念は、商品サービスの受け手の感じる価値のボラティリティの高い商材に向いていて、友人の着想の原点となったものは書籍だったのだが、広義に捉えるとそれは経験・エクスペリエンスなのではないか、一連の出来事を通じてそんな考えを抱いた。 同時に、個々人の全ての経験には大いなる価値があるわけだが、似たような経験が捉え方次第で1にもなれば100にもなるわけだし、マイナスにもなればプラスにもなり得るわけだから、一個人の経験を帰納法的に一般化して他者に当てはめるのはホドホドにした方が良いのであろう。何だか色んなことを考えたこの数日だった。写真はシアトル生まれパロアルト育ちの祖父。安らかに。