先日、中学校1年生の担任をしている友人から、担任としての自分に最も求められているのは「学級運営」だと聞かされた。一瞬その言葉の意味が分からなかったので聞いてみると、要するにいじめや不登校などの問題の早期発見や解決のことを指すようなのだが、それが最重要視されていることに驚いた。 たった一つの事例だし、それ以外の実態を詳しく知っているわけではないので認識に齟齬があればご指摘いただきたいのだが、やはり当たり前のことだが僕が教育に期待するのは「子そして個の興味関心を引き出し、隙あらば伸ばすこと」だったので、学級運営第一だと聞かされた時にはそれなりに衝撃を受けた。授業や学校活動を通じてそのチャンスを伺っているのが(各クラスの生徒と一番多く接するであろう)担任に求められていることと思い込んでいたし、むしろ授業や学校活動は興味関心の糸口を見つけるための手段、、、とすら思っていた。
ちょうど今朝、将棋界のプリンス藤井四段が学校に行かず将棋に専念したいと話しているというニュースを見かけたが、藤井さんに限らず今の時代を生きる多くの人にとって学校というのはどれほど必要不可欠なものなのだろうか。全ての人に教育を受けられる権利があるのは素晴らしいことだしそれは憲法で保障されているわけだが、同じく憲法で規定されている、子どもに教育を受けさせなくてはならないという大人に対して課された義務が義務教育と呼ばれ、その言葉のインパクト故に本来の学校の必要性や意味以上の意味を内包してしまっているように思う。
今、とある公設民営の学校設立プロジェクトに携わっていて、それ故に上記のような問題に敏感というのもあるのだが、この学校は発達障害の子どもたちを受け入れる学校になる予定で、従来の学校以外にも選択肢が増えることは単純に素晴らしいことだと思うし、救われる子どもや親は多いはずだ。就職活動というものに対して未だに個人的には違和感しか感じないが、でも学生が自由に選べるのは素晴らしいことだし、職業選択などできなかった時代や国から比べると遥かにマシだ。
結論のない普遍的なテーマをうだうだ喋るのは好きじゃないので、ここで最近読んだ本で数学者・理論物理学者のフリーマン・ダイソンが述べていたことを引用して終わりにしたい。そういえば先日我が家の長男も1週間だけ学校に行きたくないと言う期間があって、その後すぐ事なきを得たのだが、教育や学習についてはあまり深く考えず子どもの発する「すげー!」「面白い!」回数の最大化だけをKPIに淡々とやっていく所存である。
「博物館の方が学校よりずっと役に立つと、常々言ってきました。私自身とても幸いなことに、ロンドンの博物館を歩き回ることで、その当時持っていた知識のほとんどを得ていました。アメリカにも優れた博物館がいくつかあって、私の孫たちが育ったオレゴン州では「サイエンス・ワークス」という素晴らしい科学博物館がありました。孫たちは、そこで楽しんで時間を過ごし、学校の教室で学ぶよりもはるかに多くのことを学びました。おそらくこれは、どの時代でも言えることではないでしょうか。残念ながら学校は、学ぶことよりも、生徒たちの子守をすることや、教室内で彼らを静かにさせることに、あまりにも多くの時間を費やしてしまっています。『人類の未来』NHK出版新書」