今日一日中、仕事をしながら、今朝facebookでシェアした記事のことがずっと頭に余韻のように残っていた。特に印象に残ったのは次の箇所だ。
「安倍政権から一本取ったって騒いでいる場合じゃないですよ。福祉を充実させるためには、みんなが負担しないといけない。そのためには社会が分断してちゃいけない。その分断をつなぎ合わせるのがマスコミの役割なんだから、本当の解決のためにはみんなが何をしなきゃいけないのか、一人一人が自分の問題として考えることができるような材料をもっと提供して欲しかった」
まだチャンスはあるし、挑戦し続けなくてはならないけれど、今のままだと日本の人口は減り続けるし、経済だって大きく伸びることはない。 ならば全ての人の全ての欲求を満たすことはできず優先順位に沿って満たされていくので、満たされず我慢しなくてはならない人もたくさん出てくる。それは仕方のないことなのだ。
そこで僕が思うのは「我慢=辛い」ではないということだ。 我慢というのは制約とも近いが、未だに世界的な人気を誇るスーパーマリオブラザーズのマリオの顔になぜ髭があるか?当時の映像技術では顔の細部が表現できないので髭で覆うことで事なきを得たわけだが、映像技術の限界という制約(我慢)こそが、世界的な人気を誇った髭のおじさんの開発秘話というわけだ。
毎度の子連れ出勤の話で恐縮だが、この制度は「施設の整備が不要で簡単に実現できる制度」として取り上げられることが多い。だが「簡単」という点には同意できない。 確かに経済的な負担はほぼないが、オフィスにいる複数の当事者全員の「少しずつの我慢や工夫の結果」としての子連れ出勤であり、絶妙な均衡点の上に成り立っているのだ。
まず子どもを連れてくるママは想像の通り大変である。通勤は大変だし、仕事中だって常に子どもに意識を向けているはずだ。(前日は早く&十分に寝かせたりもしてくれているようだ) 次に子ども。やっぱり家で玩具で遊んだり外で走り回ったりしたいだろうに、子連れ出勤の日はオフィスで過ごさなくてはならない。 次に子連れではない社員。別の会社に行っていれば静かで快適なオフィス環境が供されたかもしれないのに、間違ってこの会社に来たが故にいつもうるさいし、挙げ句の果てに子守もさせられる。 これが現実だ。 こういう我慢の上で成り立っているのが子連れ出勤制度で、その結果として現在は4-5名の、累計だと十数名の方々が、家で子どもと二人きり、、、という状態に陥る事なく、仕事を通じて良い形で社会と接点を持ち続け報酬を得ることもできている。 幅広い視野を持たずここだけにいると、待機児童問題というものが本当に不思議に思えてくることだろう。
でもここで強調したいのは「 "我慢"というのも我慢であって我慢でない、実際にフタを開けてみればむしろ楽しいもの」という点だ。 子どもがいる・いないに関わらず皆が日常的に子どもと触れ合うことで「子どもが欲しい」と思うスタッフも少なくないだろうし、幼稚園に通い始めてもうオフィスには来ていない子どもが「オフィス行きたい」と言い出す制度が子どもにとって我慢の対象だけであるとは到底思えない。
何度も言うようだけれど保育園はもっとあった方が良い。 でも人口が増えず(今のままだと東京だって近い将来人口が減少に転じる)経済も伸びない中で保育園が増えることだけを切に願うのは楽観的過ぎるだろう。 そして、たとえ保育園があったとしても、発熱して(元気なのに)預かってくれないとか色んな状況は子どもがいれば出てくるので、代替手段は多ければ多いほど良い。 子連れ出勤ももちろんだし、全国にちょこちょこあるファミリーサポート制度や保育ママ制度など、無数にある地域ごとの小さな制度や取り組みがもっと増え、もっと可視化・認知され、全体として何となく保育園の代替手段になっている。そんな風になっていくと良いと思うのだ。
そして最後の拠り所はやっぱり近所の仲良しの友達とか家族に子どもを預かってもらったり、、、そういう無理を聞いてくれるコミュニティの存在で、それを作ること、関係を維持するというのは手間だし面倒だし「我慢」なわけだが、それができると結果的に利するのは自分だし、それは面倒だけれど案外楽しいものだったりすると思うのだ。 数人のママ友に掛け合って互助会を作ったって良い。ちゃんとした(行政)サービスを作ろうとすると責任問題など厄介だが、勝手にやってる勝手組織であれば誰も文句は言わないだろう。 これらは全部面倒だが、結局得するのは自分や自分の家族だ。
日和見主義はもうやめたほうが良い。 面倒で手間だけど、その我慢を乗り越えて現実的な利便性と楽しさを享受した方がよっぽど良いと思うのは僕だけだろうか。