我が家ではあしなが育英会に毎月数千円の寄付をしているのだが、そのお礼として、教育資金を受け取った(親を失った)子どもから、時たま手紙が届く。 どこかの誰かからの、匿名の手紙だ。どこの子どもが送ってきたものか知る術がないのだが、出し手の方も、自分の書いた手紙がどこへ行くのか、恐らく知らない。
一方で、プランジャパンだか何だったか、僕の友人も同様にアフリカの子どもの教育資金を毎月定額で寄付していて、こちらの場合はお互いがお互いのことを認識しているので、アフリカにも扶養家族がいるような気持ちになると話していた。
毎月定額で教育資金を寄付するという点ではほとんど同じ仕組みだが、お互いのことを認識・特定できているか否か、匿名か否か、これは実は結構大きな差ではないかなと思う。
特定できる場合、先ほど書いた通りお互いがお互いに感謝や思いやりや愛情や友情を抱くことになろうと思う。
では匿名で特定できない場合はどうなるのか。 恐らく団体の活動そのものや社会全般への感謝の方向に、気持ちが向かうのだろうか。それはそれで悪くない気がする。
そういえばあしなが育英会で支援を受けている子ども達が募金活動を呼びかけている光景はよく目にするし、理事の方も以前、あしなが育英会の運営資金の90%(数年前当時)は募金活動をはじめ法人ではなく個人による寄付だから景気の影響を受けづらく安定している、という話をしていた。
2-3年前、タイガーマスクによるランドセルの寄付が話題になっており、その後のニュースの波であの話題はかき消されてしまったことを今思い出したが、匿名の寄付というのはそういう意味で、悪くないと思う。