音声朝礼と、母の日

何かを書いていて面白いのは、書きながら思考が整理されたり、何かを思い出したり思いついたりすることです。書き始める前には想像もしていなかったような自分を発見したり、アイデアに出くわしたり。そういうことがよくあります。なので書くことは止められないし、生活における欠かせない要素です。

最近、月曜日の朝に音声朝礼というものをやっていますが、喋りの方はまだまだ、そのレベルには全く到達できません。朝礼といっても単に、原宿駅からオフィスまで歩く途中の5-6分でiPhoneとairpods相手にひとりで喋り、それを録音して社内向けに配信する簡単なもの。内容は先週の振り返りや今週の予定、週末やったことや会社の方針などです。1ヶ月以上続けているので徐々に慣れてきたのですが、まだ事前にざっくりイメージしたことを言葉にして喋っているだけ。書いているときのように、喋りながら何か思いついたり意外な自分を発見したり、そういうことは今のところ起きません。もちろん喋るときに相手がいれば、もちろん、発見やインスピレーションの連続だったりするわけですが、独和ではそうもいきません。でも少しずつ慣れて、然るべき筋力(?)が鍛えられているのか、喋るときの余裕が出てきている感覚はあるので、もう少し続けていたらまた変化があるのかもしれません。もう1-2ヶ月、粛々と続けてみようと思います。

ところで今週末は母の日です。今年もいろいろな商品をそろえてお待ちしています。半年ほど前に出したシアター&ミュージックギフトなどは割と人気の予感です。定番のスパ&エステシリーズにも新シリーズなどが仲間入りしているので、まだ母の日ギフトを決めていない方は、ぜひソウ・エクスペリエンスのオンラインストアを覗いてみてください。

「これ”で”いい」学校

ドワンゴ学園が運営しているN高やN中は教育史の年表に刻まれ得るプロジェクトだと思います。例えばウィキペディアの日本教育史の項を見ると、江戸後期から明治を経て今に至るまで、文部省の設置とか東大(帝大)、そして学制の話が大半。現状では、民間の取り組みで掲載されているのは唯一慶應義塾の設立だけです。直近の項だと2006年の改正教育基本法とか2008年の教育再生懇談会設置など。おそらく慶應義塾でさえ、その評価が定まり年表に載るようになるまでに数十年単位で要していると思うので、この予言が正しくてもだいぶ先のことになるのでしょうが、N高N中というのはそういう取り組みであると思います。前回のサッカークラブ同様、自分の子どもに関することなので選択者バイアスが大いにかかっていることは否めませんが。

ちなみに僕にとってN中は「これ”で”いいじゃん」の連続です。これ”が”じゃなくて、これ”で”。例えば、 ー入学前のいわゆる受験はなく、最低限の学力確認テスト ー通学は校舎に行ってもいいしオンラインでもいい ー学習は基本的にアプリを使い、それぞれで進行。分からなかったらチューターに質問 ーサッカー部があるの?と思いきやeスポーツ部 ー入学式(含めオフィシャル行事すべて?)はオンライン。登場する先生や生徒は、実写もいればアバターもいる ー配信はニコ動で「風呂から参加」とか「校長綺麗」「8888888」「学費高い」みたいに激しいコメントの応酬 ー自由時間多く、各自の興味の探索や追求が最優先(自分を振り返ると中学〜大学までの一貫校に通った最良のポイントは自由時間の豊富さだったと思うので、これとても大切なことだと思います) ー遠足は物理もあればマイクラもある。物理で出かけた先で皆でマイクラとかもあるらしい。謎

公立・私立問わず、世の中には多くの素晴らしい学校がありますし、そこで最高の時間を過ごし経験を楽しんでいる人は大勢います。それはそれで素晴らしい。一方で今の学校にフィットしない子どもたちも大勢出てきていて、僕の子どもたちも、そういう部類です。彼らの生まれ育った時代と”学校”というスタイル、いやコンセプト、にギャップがあるので、それは必然だと思います。誰が悪いとかではない。この5年の不登校児の急増の一部または大部分は、そのあたりに起因するのではないでしょうか。 既にN高は2-3万人の生徒数を抱えており(おそらく日大?を超えて)日本一のマンモス校。きちんと調べてないですが、日本の高校生って3学年で300万人前後とかだと思うので、つまり高校生の1%がN高生という計算になります。これが3%とか5%とかになると、いよいよ社会に大きな影響を与えてくるのでしょうか。N中はさすがに文科省の定めるカリキュラムを逸脱し過ぎているのか、中学校とは名乗れずフリースクールの扱い(つまり所属は公立)ですが。

まだ入学前の輪郭がぼんやりした状態なので、これからまたいろいろ出てくるはずです。ですが今このタイミングだからこそ書けることもあろうかと思い、少し書いてみました。 最近にわかにチョコザップが増えていて、そのスピードとスケール(そして他社には真似しづらい内容)に驚かされます。ですがそれよりも遥かに静かに、けれどより大きな波としてうねりつつあるこのプロジェクトがどう推移していくのか。当事者でも部外者でもない、微妙な距離感を保ちつつ観察していきたいと思います。また気が向いたらレポします。

常にハイライト

常にハイライト。 次男の通うサッカークラブの特徴を一言で表現すると、こうなります。 観戦でもテレビゲームでもなく、生身の人間がプレーするサッカー。そして試合ではなく練習。 それは、ともすれば辛かったり厳しい訓練のような内容にもなり得るはず。 けれどそのサッカークラブでいつも繰り広げられるのは、試合のハイライトシーンのような場面ばかり。そもそも練習時間の半分以上が試合。試合といっても点数を数えることはなく、時間とかも無視。とにかく連携してボールを回してゴールを目指す。ボールがコートから飛び出てしまったら、審判を務めるコーチが別のボールをポーンと蹴り出す。またそこから、次のハイライトが始まる。ひたすらそれの繰り返しです。 きっと疲れるでしょう。でもこれ、楽しくないはずがありません。 誰も点数とか気にしない。誰も勝ち負けとか言わない。本当にひとことも言わない。でもみんな楽しそう。 見ているだけでも面白いので、僕もラスト30分くらいは必ず早めに到着して、見学することにしています。 眺めていると、もちろん基礎練などにも取り組んでいます。でもそれは開始直後のウォーミングアップを兼ねてとか、待ち時間の合間に順に呼ばれてとか、そんな位置付け。 「楽しくて夢中になれば基礎はある程度身につくし、その時には自ら勝手に取り組むでしょう」 直接聞いたことはありませんが、クラブ側のそんな哲学がビンビン伝わってきます。 控えめに言ってサイコーです。 整列とか叱責とか細かな規則とか、全くない。けれどそこには独特の秩序があり、調和が生まれています。

指導するのはアルゼンチンの方々で、トップの方はマラドーナともプレイしたことのある代表選手だったとか。詳しくは知りませんが、とにかく見慣れたクラブ活動やスポーツスクールとは根本的に異なるその風景に、いつも心打たれます。サッカーという競技こそ同じだけれど、完全なる別物。 これも僕の勘ぐりですが、彼らにとってリフティングとかパス練はサッカーと思っていない可能性すらある気がしています。なぜなら後半の試合が始まる際、コーチは「さぁサッカーしよう!」と声をかけるから。え、それまでのはサッカーじゃなかったの?真相は不明ですが、可能性はあります。

だからと言ってアルゼンチンを目指せるわけではありませんし、そうすると債務不履行となり経済が混乱します笑 けれどワールドカップで結果を出したのも、そのアルゼンチン。 であればその差を認識し、少しずつ取り入れ、修正していくのが良いのでしょう。 この指導の仕方はマニュアルでどうにかなる話ではなく、運営側の考え方や生き方が色濃く反映されているはずなので、時間をかけて少しずつ。

僕は高校でもテニスを続けたかったけど、入学時に鬼の走り込み訓練があるテニス部は100%馴染めないだろうと思い断念した過去があるので、「常にハイライト」はとても羨ましい。指導法には色んな考えや賛否があるのでしょうが、低年齢であるほど「常にハイライト」で良いのでは?などと思うのでした。

YUKIYAMA

先日、家族で雪山に行ってきました。昨年は3月と4月に行ったので、徐々に(冬ではなく)春の恒例行事となりつつあります。僕はスノボ。妻と子どもはスキーでしたが、今年から次男がスノボにチャレンジ。はじめ1時間はレッスンをつけて、その後は試行錯誤しながらも初日終盤には慣れてきて、翌日からはスイスイ楽しんでました。三男がまだ2歳、かつ割とわがままなので少々大変ですが、それを理由に親や長男・次男の体験の機会を逃すわけにはいきません。幸い兄弟たちも何かと面倒を見てくれて助かりますし、こうして家族そろって出かけることは、長くて残り5年くらい。後悔したくないので、皆の連立方程式のようなスケジュールを縫って今後も恒例行事化を続けたいと思います。 それにしても毎年この時期に雪山に行くたびに、日本の自然環境が恵まれていることを感じます。スキー場は早いところは10月末にオープン、そしてガーラ湯沢あたりの営業期間は5月のゴールデンウィーク明けにまで及びます。実に1年の半分以上は都心近郊でスキーやスノーボードが楽しめるのって、すごくないですか。ウインタースポーツという(冬にしかできないような印象を与える)呼称をやめた方が良いレベルだと思います。一方で海遊びができるエリアもたくさんあったりするわけです。すごい。だからといって日本に閉じこもっていてはいけませんし、そろそろ海外にも出かけて行こうと思ってます。ですが、この恵まれた環境を利用してたくさんの経験をしたり、与えたりしていきたいところです。

待受画面の設定変更お化け

僕のスマホの待受画面はたびたび変わります。概ね次男、時たま長男の仕業で、彼らが自分の写真に差し替えるのです。郵便やケータイは私物なので人のものに勝手に触れたり覗いたりすべきではない。もちろん日頃からそう伝えているのですが、これだけは毎度叱ることなく、ひとりで地味にほっこりしています。親のマインドシェアを高めようと待受画面をせっせと変えてくる子どもたち。なかなか可愛いではないですか。ひとつ問題を挙げるとすれば、次男なら次男、長男なら長男だけが写っている写真に差し替えることです。僕はそもそも家族の写真を待受画面に設定する習慣はありませんが、もしするならば、家族みんなで写っている写真を選ぶはずです。なのにひとりの子どもがどで〜んと収まった写真が設定されるので、例えば電車で隣に座った人などに誤解されているのだろうななんて思ったりします。些細な話ですが。おかげさまで割と忙しく過ごしており、ブログの投稿頻度が落ちておりますが、こんな呑気なことを書き連ねることができる平和に感謝しつつ、春を楽しみましょう。