「他者に善くする」行為のアシスト

「他者に善くする」という行為をもっと簡単に、もっと普遍的にできないかということを最近考えている。「他社に善くする」という言葉の定義はかなり曖昧だけれど、まぁそれは一旦置いといて。
「他社に善くする」という観点で世の中を見回してみると、結構面白い。そもそも仕事は(色々あれど)誰かを便利にさせてあげたり楽しくさせてあげたりすることを通じて他者に善くしてあげることが究極的な目標だし、ボランティアや寄付というのも他者に善くする行為の代表例。外国人に道案内してあげることも年配者に席を譲ってあげることももちろんだし、お店で接客してくれた店員さんに丁寧にお礼を伝えるのも他者に善くする行為だろう。子育ても、子供という大変手間そして負荷のかかる他者に対して長期にわたって善くしてあげる行為と捉えることもできそうだ。

そしてこれらの他者に善くする行為というのは、全般的にとっても気持ちが良いもで、それは生活や人生の中で感じる幸福度合いと密接に関与していると思うので、改めてこの「他者に善くする」ことについて再考し、整理しようと試みている。

そういえば昨日、こんなことがあった。鎌倉駅まで自転車で向かう途中によく寄るパン屋でパンを買ったら、さすがに顔を覚えられたのかおまけにラスクをいただいた。電車で買ったパンを食べたらもうお腹一杯だったので、ラスクはそのまま食べずに鞄の中へ。オフィスに一番乗りで到着してしばらく仕事をしていると、いつもの掃除のおばちゃんがやってきた。伽藍堂のオフィスにいつもと変わらず掃除にやってきてくれるおばちゃんに何だか心を打たれ、そもそも頂き物であったラスクと、同じく鞄に入れたまま食べ忘れていたみかん(のようなもの)をプレゼントしたら、とっても嬉しそうにポケットにおさめてくれた。掃除の仕事をしている最中に荷物を増やすのは少し気が引けたし、このコロナ下で丁寧に包装されたわけでもない食べ物を受け渡すことも少し気が引けたが、でもありがとうと喜んでくれたおばちゃんの笑顔がとても印象に残って気持ち良い気分になった。

僕はこれまで、人と人や、人と外部環境のインタラクションは多ければ多いほど良いと考えていて、それはその方が各個人の経験の蓄積が加速されて興味関心が広がっていくからだという理解で、それは今でも間違っていないと思うけれど、もっと単純に「他者に善くする」行為そのものに少しずつ関心が移ってきているようにも感じる。そういえば昔オフィスに車を止めといて、帰ろうと思ったら車がピカピカになっていたのはとても嬉しかった。その時の大家さんのイタズラしたような顔は今でもよく覚えている。
自分の生活の中で無理のない範囲で他者に善くしていくことはもちろんだが、そんな他者への働きかけの輪が広がる、アシストできるような取り組みというのは、ギフトを生業にするソウ・エクスペリエンスとしても考えるべきことだし、個人的にも時間をかけて掘り下げていきたいテーマだ。
そういえば1ヶ月前くらいに『世界は贈与でできている』という書籍を出版した塾講師であり哲学者である近内さんにお目にかかったが、「他者に善くする」というテーマで改めて会って話してみようと思う。